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【読書】と【映画】のブログ

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。夏目漱石『草枕』

「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。・・・・」
夏目漱石草枕』の有名な冒頭だ。
小説を読んでいなくても、どこかで、この言葉だけは見聞きしたことがあるのでは?

主人公は、『余』と自分のことを称する三十代の洋画家である。
日露戦争の最中、鉛のような汽車が走り始め、建物も、町も、急速に西洋化が進み始めた目まぐるしい時代だった。
余は、住みにくい人の世を、詩や絵のような芸術の力で、住みやすくしていけないものかと思案しながら、絵の道具を携えて旅を続けている。

山深い温泉宿に泊まることになった余は、宿の出戻りの若いお嬢様・那美と知り合い、彼女から、自分の絵を書いて欲しいと頼まれる。
所作も美しく、その時代の人としては少し外れた『非人情』な那美には惹かれるが、何かが足りない感じがして、描こうと思っても絵に描けない。
しかし、満州へ出征していく彼女のいとこを送りに行ったホームで、偶然、つい先日彼女にお金の無心に来ていた元夫が、やはり満州へ立つ姿を見てしまい、一瞬窓越しにみつめた彼女の顔に浮かんだ〈憐れ〉こそが、その足りないものだったときづいた。
と、いう、格好いいような、少し物足りないようなストーリーである。

しかし、これは、小説という形を借りて、漱石の思いを綴った芸術論なのではないだろうか。
この話を背景に、戦死者を生む戦争に対する思いや、その戦争を起こした西洋化(近代文明の摂取)への疑問を、さらには、西洋文学や西洋芸術についても、時の止まったような山里の描写を織り交ぜ、東洋のそれと比べることによって、論じている。
そして、何より、芸術美の尊さを語りかけてくる。


草枕』を知っている人は多いと思うし、昔読んだ人もたくさんいるだろう。
でも、もう一度、読んで見ることをおすすめしたい。

私自身も、文学少女だった頃に読んだきりで、内容もおぼろげたった。そして、今回改めて読んでみて、いろんなことが再発見できた。
言葉の軽快さ、巧みさに引き込まれ、中国文学への造詣の深さや、現代にも通じるような漱石の考え方に感心しながら、少しばかり、漱石らしさに触れることができたと、思う。

最後に、冒頭の文章は、この先もなかなか格好いいので、是非読んでもらいたい。


 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟 (さとっ) た時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどなり)にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(く)だる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっと)い。
 住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画(え)である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云いえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。着想を紙に落さぬともきゅうそうの音(おん)は胸裏(きょうり)に起おこる。丹青(たんせい)は画架(がか)に向って塗抹(とまつ)せんでも五彩(ごさい)の絢爛(けんらん)は自(おのず)から心眼(しんがん)に映る。ただおのが住む世を、かく観(かん)じ得て、霊台方寸(れいだいほうすん)のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく)の俗界を清くうららかに収め得(う)れば足(た)る。この故に無声(むせい)の詩人には一句なく、無色(むしょく)の画家にはせっけんなきも、かく人世(じんせい)を観じ得るの点において、かく煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)するの点において、かく清浄界(しょうじょうかい)に出入(しゅつにゅう)し得るの点において、またこの不同不二(ふどうふじ)の乾坤(けんこん)を建立(こんりゅう)し得るの点において、我利私慾(がりしよく)の覊絆(きはん)を掃蕩(そうとう)するの点において、――千金(せんきん)の子よりも、万乗(ばんじょう)の君よりも、あらゆる俗界の寵児(ちょうじ)よりも幸福である。


草枕 (新潮文庫)

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