【読書】梓澤要『捨ててこそ空也』

 空也ときいて思い付くのは、京都六波羅蜜寺にある空也上人立像。

 それが、思いのほか小さい像だったことと、口から何体かの阿弥陀仏が飛び出していている姿が印象的だったことを思い出す。

 そして、この本で、空也上人が、如何に貧しい人々の中にはいっていき、念仏をとき、共に生きたかを知った今は、その像が、実によくその人となりを表しているように思えるのである。

 空也は、元々高貴な生まれと言われており、本書では醍醐天皇の皇子として書かれている。

 常葉丸( 後の空也 )は、政治の駆け引きに翻弄され、皇子宣下すら受けられずに育ち、母は、その悲劇を受け止められず常葉丸を虐待し、側室たちへの羨望と嫉妬で心を病み死んでいった。

 不幸な皇子は、僅かな理解者たちに守られながら育つが、ある時、山の中で出会った遊行僧の一団に心を惹かれる。

 喜界坊が率いるその一団は、野に棄てられた遺骸を集めて荼毘し弔うだけでなく、井戸掘りや、橋の架け替えなどの土木技術でも庶民を救っていた。

 父母に疎まれ、自分の居場所がなかった常葉丸は、出家した祖父の宇多法皇の説く特権階級を救う仏教ではなく、喜界坊達の活動にこそ救いがあると信じ、出奔。地を這うように暮らしながら、念仏を学んでいった。

《「すべては空」と悟ることでしか、苦しみから逃れるすべはない。そこからすべてが始まる。》

 そう悟った常葉丸は、自らを空也と名乗る。

 さらに厳しい修行を重ね、念仏を唱えながら各地をめぐり歩いた。仏教は金持ちだけのものだと鼻であしらわれ、それでも、日照り続きで苦しむ村に井戸を作れば喜ばれ、大雨続きで崩れた橋を架け替えてやれば感謝され、人びとの心に少しずつ寄り添っていった。

 36才で京都に戻ると、市中で乞食をし、貧民に食を与える活動をつづけた。初めは、汚い乞食坊主と追い払われていたが、その行いや姿を見ていた人々から、「市聖」「阿弥陀聖」等と呼ばれ、少しずつ慕われるようになっていった。

《心から仏の御名を呼んで願うだけで、どんな者にでも救いの手をさし伸べてくださる。南無阿弥陀仏と言うのは、阿弥陀仏よ、あなた様におすがりします、という叫び声なのだよ。》

《念仏は修行ではない。ましてや、苦行であってはなりませぬ》

 法然親鸞が庶民に念仏を説いてまわったよりも、さらに二百年も前に、空也は、貧しい人々と共に暮らしながら念仏を伝えていった。

 貧しき人々と共に生涯を送った聖の言葉には、力がある。


捨ててこそ 空也 (新潮文庫)

捨ててこそ 空也 (新潮文庫)